ハンセン病回復者が撮る富士山の写真展開催
「ただ今左手に富士山が見えます。」
機内のアナウンスに心踊り、夢中でシャッターを切った。
ジャカルタからの深夜便で羽田に着く直前の事だった。
デジャヴだ。
高校生で初めて修学旅行で東京に行った時のことが蘇って来た。
新幹線、飛行機、晴れている日の都内からも見ることができるかの山だが、
見る度に別人のようなのは何故だろう。
季節や天候が違うからではない。
僕の心が違うのだ。
かの山の麓にある国立ハンセン病療養所、駿河療養所の杉浦さんの部屋に初めて入れてもらった。
彼の部屋からかの山が見えた。
空気がピンとしていて、今までにあったことのない姿だった。
彼はずっとかの山をこの部屋で撮り続けた。
そしてその写真を東京で展示したいという夢があった。
写真家の黒崎さん、ボランティア活動をしている伊東さん、
多くの方の協力によってその夢が実現した。
9月からハンセン病資料館で展示をしているが、
10月15〜25日ではとうとう日本財団一階のバウルームで展示できることになった。
東京のど真ん中でかの山が観れるのだ。
日本財団赤坂ビル1Fバウルーム
日時:10/15(月)~10/25(木)9:00~17:00(土日曜定休)
アクセス:https://www.nippon-foundation.or.jp/who/about/access/
注)10/25(木)は12:00まで。
詳細はこちら。
アンジュアン島へ
朝一の便でアンジュアン島を目指す。1時間前に小さいバス停か刑務所かのような狭い待合室でひたすら待つ。
AB Aviationというmade in コモロ🇰🇲の航空会社はブラジルのエンバレラE120の30人乗りで、自由席だ。
しかし、30分ほどの空の旅なのにしっかり水とビスケットを出してくれた。
同乗した、コモロに住んで4年になるという北京出身の中国人のおじさんがいろいろと教えてくれた。
彼は建設会社でこの国の道路を一手に引き受けているという。中国が話せて良かったという瞬間である、アフリカ諸国では中国人の方からの情報がとても有り難い。
コモロはアフリカでおそらく最も安全な国だという。また中国人は100人しかおらず珍しく中華料理店も一軒もないという。コモロには日本人は1人もいない。ちなみに隣のマダガスカルには10万人の中国人がいるという。
アンジュアン島はグランドコモロ島に比べてできたのが早く、川や滝もあるという。
グランドコモロ島は最近できたもので川すらない。
空港付近はゴツゴツした溶岩の固まったような岩ばかりで火星に来たかのような錯覚さえ覚える。
コモロ諸島は、日本や台湾と違い大陸棚がなく、火山の噴火によって比較的最近できた島であるため、島の周りには水深1000メートルを超え魚もほとんど取れないという。
唯一マグロが取れるそうだ。
コモロ島を出てからアンジュアン島まで一切島は見えない。
海に張り出すようなアンジュアン空港に到着した。
Welcome to our island. フランス語圏の人が一生懸命喋る英語のフレーズにいかに島の人々が歓迎してくれているのがわかる。
アンジュアン島は山の斜面や少ない平地に張り付くように人々が生活しているが、色とりどりの布屋さんが軒を連ね水揚げされたばかりと思われる魚市場など街には活気があった。
アフリカの島国コモロに到着
早朝にアディスアババを出発したエチオピア航空はタンザニアのダルエスサラームを経由して午後14時過ぎにコモロの首都モロニに到着した。
機内からはアフリカ大陸を離れこのグランドコモロ島まで、一切他の島を発見することはできない。
インド洋にある孤島だ。
どこまでも青い海から突如、グリーンの大きな島が現れる。縦長で島の中央が丘になっており、海岸線にぽつぽつと家がある。
平地はほとんどない火山島だ。火山灰の土地のため主食である米がほとんど取れず輸入に頼っているという。
はらっぱのような空港に到着した。入国ゲートには多くの地元の人に混じり西洋人の観光客が少しいるが、東洋人は私たちだけのようだ。
イミグレのカードはこのような観光案内とともに渡された。近年観光に力を入れているそうだ。
この国は3つの島の連合国で、面積は東京都と同じで人口は約80人ほどの小さな国だ。
内戦が長く続き世界最貧国に位置付けられているこの国だが、町は至って平和な空気が流れている。
3つの島の一つアンジュアン島では特にハンセン病の患者が多くWHOの制圧基準1万人に1人未満を大きく上回る1万人あたり8人の数字が出ている。
明日はとうとうアンジュアン島に渡る。
インド洋の波音を聞き、高くそびえる椰子の間には満点の星空が広がっている。世界の果てまで来た感慨に浸る。
今日はそろそろ寝よう。
台湾花連地震報告会
台湾地震報告会、緊急で集まっていただき、金曜日にも関わらず沢山の方が来ていただけました。
集まった募金23,387円を台湾の花連にいち早く入ってプロジェクトをスタートさせたJUNさんにお渡ししました。
3月11日の東日本、台湾合同慰霊ダンスフェスティバルや、バイクシェアリング、お土産、下水管などのプロジェクトに使っていただくことになりました。
今日は集まっていただいた方一人一人が具体的にこんな事ができることを発表していただいたので、Facebookのグループを作ろう思います。
そこに、今日言っていただいた出来そうなこと、今日言えなかったことをコメントしていただけると、次の具体的なアクションに繋がると思います!
さっそく西田さん写真ありがとうございます!樋田くんも、クラウドファンディングでプロジェクトを立ち上げました。
地震で生活もままらない時に、東日本の慰霊も一緒にやりたいと言ってくれた台湾の方。
JUNさんが台湾を訪れた時には16人という亡くなった方の少なさもなるのか、海外から支援に来ていた人は皆無だったそうです。
そんな中JUNさんがいくと、日本から来たというだけで涙を流された方がたくさんいたそうです。
僕はまず、
1、3月11日になるべくたくさんの人に来てもらうために、台湾に旅行をされている人殆どが台北、高雄の人にも花連に行ってもらうためのSNSプロジェクトを立ち上げます。
2,行動に移したいけど、何をしたらいいかわからない若者を引率して台湾に行きます。これはゴールデンウィークを考えています。
3.地元福岡県福智町で去年から始めた森の音楽祭に、被災された花連の方を招待します。
4.ハンセン病の療養所を回るツアーを開催しているBURARIのメンバーと花連に行き、ハンセン病療養所と繋げます。
肩肘張らずに出来ることを楽しくやっていけたらと思います、ご意見聞かせてください!
インド大統領と合った時の裏話
少し遡るが、グローバル・アピールでインド大統領と面談した時のことを振り返りたい。
「グローバル・アピール2018」を1月30日、デリーから発表した。
このアピールはハンセン病の差別をなくすために世界中の政治や宗教指導者、それに世界医師会や看護師協会なども参加して毎年発表してきており、06年から開始して13回目。今年は、世界91カ国の障害者団体が加盟する障害者インターナショナル(DPI)との共同宣言として発信した。
その日の夕方、大統領と面談する機会をいただいた。
事前にゲートを指定され、車はそこで名前を伝え内部へ入っていく。
中庭のようなところが見えてきた。
兵隊が訓練を行っており、軍馬は走りながら火の輪をくぐったり車を飛び越えたりしている様子はここでしか見られないものであろう。
携帯電話などの電子機器は持ち込むことができず、厳重な身体検査の末やっとのこと、大統領府へ入ることを許された。
イギリス時代に立てられたものであろうか、石造りのどこまでも続く高い天井の廊下をこえて、絢爛豪華な部屋に通された。
壁や床は全て木目調で、豪華なシャンデリアと、ろうそく風の明かりが品がよい。
長いテーブルがあり、貴族が座るような椅子に着席して大統領を待つ間の時間がこれほど長く感じられたことはない。
本棚には、ブリタニカ百科事典がずらりと並び、インドの上流階級が未だにイギリス人の知識を頼りにしていることが伺われた。
程なくして大統領が現れた。
最下層のカーストから今の地位まで上り詰めた苦労人だが、上品なオーラをまとい穏やかな雰囲気であった。
笹川会長は今回インドに来た目的と、額縁に入ったグローバル・アピールの宣言文を手渡しした。それだけでなく、回復者団体であるAPALのナルサッパ会長も紹介できた。
私は近くでメモを取りながら、その歴史的事実の証人となった。
写真を撮ることが許されなかったので、これは大統領から入手したものである。
裏話がある。
実は私、大統領に会うことを想定していなかったのだ。
メンバーに入っていなかったが、建物の守衛が名前リストを使ってパスポートと名前を照合していくのだが、なぜか私だけスルー。
まさか、中に入れるとは思わなかった。
その時、くるぶしの見えるアンクルパンツを着用していたのだ。
この服装を見た他のメンバーは、「大統領に会う格好ではない」と「つまみ出されるのでは?」と心配されたが、そのままの服装で強行突破。
私は歴史上の大統領に会った人の中で、最もカジュアルな人間となった。
ジャールカンドの朝
ジャールカンド州の州都ラーンチに到着した。
ポー、ゴトン、ゴトン。
なんの音だろう。
おもむろに外に出た。
ビビーと言うオートリキシャのクラクションの音。
どこからもとなく聞こえてくる祈りの声。
オートリキシャーの隣で寝る人。
ハンセン病キャンペーンを手伝ってくれている、インドの俳優アミタブッチャー氏の看板。
(左がアミタブッチャー氏)
リキシャーで客待ちをする人。
チャイの屋台に群がる人。
少年が手を振って来た。視線を感じる。
東洋から来た珍しい顔に、びっくりしているのか真顔の人が多い。
駅舎が見えてきた。
朝日が差し込むプラットホーム。
通勤電車を待っているのか、人影がまばらに。
東京の通勤からは想像できない緩やかな時間が流れていている。
女性は待合室で楽しそうに談笑していた。
駅舎の外にはチャイの屋台が並んでいた。
ミルクを温め、お茶をこすのをじっと眺める。
あまりにもうまそうなので、ひとついただくことにした。
15ルピー。
駅前だから少し割高かもしれない。
隣でチャイを待ってるおじさんが、
very good chay giving you.
と、注文したチャイを下げて新しいチャイを注文してくれた。
入れたのは残り物だったら、新しいミルクを出して温めなおし、チャイを入れ直してくれたようだ。
おじさんはおもむろにコインを置いて去って言った。
僕は、あつあつの親指サイズの紙コップを指でつまんで持ち上げ一口で飲み干した。